回想

はじめに

2020年、1月23日私は長崎にいました。いままで随分あちらこちらを訪ねましたが、ふと気がついてみると長崎と広島には足を運んでいません。初めて核が武器として使われた場所として、人類の愚かさ加減を思い知る場所としていつかは訪ねなければ、と思い...
回想

国家と個人の距離

1年前、維新政治について考察しているときにとても不思議に思ったのは、日本人の国家との距離の近さと国家への無関心の両立でした。国が決めてしまったら唯々諾々としたがってなんら疑問を挟まない人々、しかし不満があっても抗議行動しない人々、投票にさえ...
社会問題

全体主義の実験場―大阪

大阪で「維新の会」が勢力を伸ばして行政も議会も牛耳っています。以前の投稿でも書きましたが、「維新の会」の胡散臭さ、ひいてはそこに潜む全体主義的な危険性がスルーされてなぜ支持されるのか、その点をもう少し考えてみたい、と思いました。幸か不幸か、...
雑感

権力へのアディクション

日本の絶望的な状況がつづいている背景には、目も当てられないほどの公然たる権力の私物化があげられると思っています。安倍⇒菅⇒岸田と進んで現在、岸田首相の権力志向はもはやアディクションの域に達しているようです。ひたすら自分の思うがまま権力の行使...
回想

絶望からの脱出ーアウェー感

この7月と8月そして9月も過ぎようとしています。希望の兆しを探し、書きかけては挫折を味わう日々でした。それが日常と化し暑さも相まって思うことばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いていました。いっそのこと、それから自分を切り離して「ええじゃないか...
社会問題

絶望の日本で希望を探す(1)

全く出口の見えない状況でも、どこかに何かがあるはずだ、と思いながら時間ばかりが過ぎてゆきました。社会学者の宮台氏は、この状況を「日本の劣等性」と断じつつ、それに代わる公の場のありようからの再構築を可能かもしれないものとして述べていますが、私...
社会問題

絶望の日本-希望はどこに(5)

前回から時間が経ってしまいました。3月は瞬く間に、そして4月は次々現れる絶望の種に翻弄されながら、ゆっくりと過ぎていきます。地方議会選挙も、地域によっては変化の兆しを感じさせながらも相変わらずの結果、さらには統一教会問題も尻切れトンボになり...
社会問題

絶望の日本-希望はどこに(4)

時がたつほどに、絶望感だけが肥大していくようなそんな日本に再び絶望しています。そもそもその感覚の始まりがどこに由来するのか、を自らに問いかけました。結果、状況がどうであれ戦争をしたがる人間のいることが全く理解できないことが、その根幹にあると...
社会問題

絶望の日本-希望はどこに(3)

連日、メディアが伝える政治・経済・社会状況、どこにも希望が感じられない日本の現状に、なぜこんなことになってしまったのか、私たちの来し方の根本的なありように問いが突き付けられているように思います。と言っても自己責任に還元するものではありません...
社会問題

絶望の日本-希望はどこに(2)

前回に続いて、冷静に絶望のシナリオを読み解きたいと思います。岸田政権になってからの政策の激しい方向転換は、あっけにとられるほどのぞんざいさで行われてきました。Twitterで思わずうなったのが中沢けいさんのもので、心の強い人の余裕が感じられ...
社会問題

絶望の日本-希望はどこに(1)

冷静に日本に絶望している、というのがこのところの私の本音です。安倍元首相がいなくなったことで、もう少し社会の空気が和らぐかに思えたときもあったものの、結果的には政治を中心に、坂道を転がり落ちるかのような危うい社会の雰囲気が醸成され、その怖さ...