日本マスメディアの現状を憂う

社会問題
アルプスの山並み(インスブルックで2016年)

 前回、日本における民主主義の欺瞞について語りましたが、その実情に大きな役割を果たしているのがマスメディアです。現在でこそネット情報が出回るため、情報のメディアによる独占割合は、相対的に低下しているかのように見えます。しかし、出回る情報を見極めるための情報リテラシーについては、実際のところ極めて貧しいのではないでしょうか。

 学校教育において、与えられた内容をとにかく記憶することが尊重され、「疑う」ことへのアレルギーに近い忌避感覚が、ますます増大しているようです。従順な羊の群れを作り出すことに文科省はエネルギーを注いできました。その結果、マスメディアを通じた情報への信頼度が異様に高い、すなわち与えられた情報をそのまま信じている人の割合が多いのです。選択肢がありそうで実はどれもほぼ同じ内容で、取り上げ方の程度で差をつけている現状。

 その実態を変だと思ったのは、皮肉なことに中国での生活からでした。日本の放送で中国のメディアとして取り上げられるのは、ほとんど人民日報か中央電視台の政府チャンネル2種類です。でも実際には、30を超えるそれぞれの専門チャンネルがあります。「いわゆる政府広報」「ニュース」「国際」「社会」「経済」「ドラマ」「軍事」「芸術」「法律」「体育」「各地域ニュース」などざっと思い出すだけでもさまざまな分野に分かれていました。また新聞もピンからキリまで雑多な種類のものが発行されています。

 私がよく見たのは「国際」「社会」「経済」のチャンネルでした。「経済」チャンネルでは大企業の幹部が出席して質問に答える「対話」という番組での丁々発止のやり取りが大変興味深く、よく見ました。日本の企業では「ソニー」の出井CEOが出席しました。2005年のことだったと思います。質問に対して形ばかりの回答で、深堀できず失望したのを覚えています。この番組は人気のある番組で経済関係者や財界人も見ていると言われていました。出井CEOの回は、評判があまり芳しくなかったようです。期待が大きかった分失望もおおきかった、と知り合いの中国人は話していました。そのあとまもなく退任されたことで退任を前提に発言を抑制されたのかも、と想像しています。とても残念なことでした。

 それはともかくとして、一般の中国人の情報リテラシーは、まず疑うことから始まります。政府広報のチャンネルは、中央委員の順位を知るために参考になるそうです。「黄菊」という中央委員が在任中に亡くなったときのこと、広報チャンネルでの報道が物々しすぎると言って笑い、上海閥との関係が言われていたので彼は死刑にならなくてラッキーだった、と言う人たちを私はまじまじと見ました。こんな風に報道に茶々を入れるのがみなさん大好きです。詳しく述べるときりがないので、それは別に中国生活雑記という形でそのうちに連載でまとめたいと思います。

 要するに、報道に対して勝手気ままで自由に感想を言う人たちの姿、これが中国での人々の基本的なスタンスだったというわけです。車や携帯をはじめ世界中からものが集まるなかで、公平なものの見方ができるようになりました。日本の電化製品が苦戦しているのも分かりました。日本の電化製品が求めている方向と、世界の他の地域での製品が求めている方向が違うことも冷静に見えました。私の使っている携帯はノキアのでした。デザインが素晴らしくて手になじんでお気に入りでした。世界で大ヒットしたそうです。*中国政府が警戒するのは批判の組織化で過去の王朝はそれで倒されてきました

 というわけで情報も同様、本当のことを知るには、まず世界から多くの情報を得ること、それを判断するうえでどのようなスタンスを取るか、という基本がなければ、何も見えないのが現在の世界の状況なのではないか、と思います。それによって日本の情報もより深く見えるものがあるのではないか、と思うのです。でも現状は情報を担うマスメディアの新聞記者や放送記者の不勉強ばかりが目に付くのです。会見で深い質問ができないことが政治家の怠慢・傲慢を生み出しています。優秀な記者ほどフリーになり、フリーであるがゆえに日本では敬遠されるなかでよく頑張っているとは思っていますし期待もしていますが、厳しそう。

 こんな風にしてマスメディアは年々劣化してきて、日常生活では、もはやなくても充分だ、と思わせる程度にまでなっているという危機的状態です。他方マスメディアは情報を担うのでなく、政府プロパガンダの装置になりつつあるのではないか、と思うことも増えてきました。極論すれば、日本のマスメディアすべての人民日報化ともいえます。権力にすり寄って政府のよいしょをする人たちが、テレビでギャラを回しあい、新聞でも記者クラブでの政府発表をそのまま検証なく書き連ねている状態が目に余るようになってきました。能力で勝負できない人たちの生活のためのよいしょ。

 いま私は新聞の定期購読をしていません。情報は自分で取りに行くものだ、と割り切っています。テレビも持っていません。見る必要も感じません。必要があって図書館で60年代70年代の新聞を繰るとき、いまよりもっと熱気のある批判記事をそこに見て、失ったものの大きさを感じずにはいられませんでした。

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