2020オリンピックで露呈される民主主義挫折の死屍累々

社会問題
繁殖する草に覆われた街路樹 京都白川通で

 オリンピックを強行開催しようとする政府、厳密にいえば菅首相の映像からは、その背後関係の理由がどうであれ、頑なに「思い込んだら百年目」的な異様な空気を感じるばかりです。日本では多くの人々の反対をものともせずに突撃する首相の姿勢に、反対派に屈してはならないという強固な意志を感じるのが恐ろしいのです。

 日本は民主主義国である、と疑わない人たちがほとんどを占めている中、私はそれを疑わざるを得ないのです。民主主義とは決して多数決ではありません。仮に多数決であるならば、多数を占めた輩がすべてを取り仕切ってしまうのが民主主義なのでしょうか。国政においては選挙結果がすべてになり、議論が成り立ちません。さらに多数を占めた輩が権力を持ってしまう結果、国民の多くが反対を表明する政策を強行することができ、簡単に国政の多数派独裁が可能になります。(*投票率の低さ・小選挙区制度を考えると本当の多数であるかどうかは別問題です) 

 少なくとも権力を持っている人間は国民の声に耳を傾ける義務があります。権力においての多数意見と国民においての多数意見が異なるとき、民主主義を標榜する国であれば、権力者は当然国民の意見を尊重すべきです。しかし、悲しいかな、日本でのその歴史は国民の挫折の歴史でした。

 私の記憶では、二度にわたる安保闘争で確かに多くの国民がデモに参加して意見表明しました。しかし安保条約は改訂されました。原潜寄港への抗議もありました。今では原潜について声も上がりません。成田闘争も今は昔。沖縄では住民投票によるNOの表明にもかかわらず、辺野古での工事が強行されています。原発も高度な知識に基づき危険性を訴える人々がいたにもかかわらず、小さな事故が頻発していたにもかかわらず、「安全対策を十分にしているから安全だ」という論法で、考えることさえ放棄した結果、重大な事故が起こりました。

 この原発問題とオリンピックの問題はとても似通っています。どちらも命と利権を天秤にかけています。「安全を徹底しているのだから事故(オリンピックの場合は感染)は起こりえない」という論法は、福島の原発事故においてすでに破綻しています。「想定外だった」という形での責任逃れはもうたくさんです。事故直後、福島の原発を請け負ったGE内部では四号炉の燃料プールが倒壊したら、と恐れ慄いていたそうです。もっとすさまじい地獄が出現したでしょう。かろうじて倒壊を免れたことを幸運と言わずしてなんというのでしょうか。

 民主主義とは少数意見を尊重することがその基本なのではないか、と思います。多数が正しいとは限らないのですから、多数意見をA、少数意見をBとするなら、AとBとの議論の中で歩み寄ってA’になるかもしれません。あるいはB’になるかもしれません。あるいはその過程で全く異なるCになるかもしれません。この可能性を捨てないことが肝なのでしょう。そう考えると民主主義とは実に辛気臭くて我慢を必要とします。権力を持っている人間が謙虚でなければ、民主主義の形骸化は、容易にファシズムを生み出します。

 そして日本の権力者は、国民に対して多少の譲歩をしたとしても常に勝利してきました。民主党政権に変化の期待をしたのも腰砕けになってしまいました。今回のオリンピック強行は、国民に対して「負けるもんか」という凄まじいばかりの菅首相の恫喝なのだと思います。幸か不幸か今年は秋に衆議院選挙が予定されています。民主的な議論による政治が担保されていない日本の状態では、首相がオリンピックに賭けるなら、国民はこの選挙に賭けるしかありません。

 もっとも、コロナ感染者が急激に増加すれば、GO TOのときと同様、首相が如何に続けることに固執したとしても、選挙を考える自民党議員たちから中止を迫られる可能性が無きにしも非ずですが、その場合、菅首相はゴロツキ維新を操りながら、自爆をも恐れず権力闘争に突進していくことでしょう。権力を持つことの快感に取りつかれているようです。

 このこととマスメディアの問題については稿をあらためて考えたいと思います。

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