はじめに

回想

 2020年、1月23日私は長崎にいました。いままで随分あちらこちらを訪ねましたが、ふと気がついてみると長崎と広島には足を運んでいません。初めて核が武器として使われた場所として、人類の愚かさ加減を思い知る場所としていつかは訪ねなければ、と思いながら時間が過ぎていきました。

 1月25日、アフガンで5人のアフガンの方々とともに銃撃で命を落とされた中村哲先生のお別れ会に行くことを決めました。そしてこの機会に長崎を訪ねることにしました。長崎訪問は、先生の意に沿う行動であるかもしれない、と自分勝手な理屈をつけながら…。自分の人生でいつかは、とおもいながらできないままになっていることは山のようにありますが、それを少しずつ実現していきたいと考えました。

 年齢を重ねるということは、その年齢にならなければわからないことがわかるようになるということかもしれません。そういう意味で親を思い出すとき、後悔の念に駆られることも少なくないのですが、こんな風に人生はあとの世代に順送りされていくのでしょうか。

 2014年に私は「北京物語」というサイトを始めました。これは、父の遺した手記を歴史の事実の記録として公にしたい、との思いから始めたものです。私自身も資料を探し求めて北京の街を歩きました。

 それを始まりとしてさまざまな考察を続けてきましたが、タイトルとの乖離、URLがどうしても保護されたものとならない事情などから、新たなサイトを立ち上げることにして、以前より軽い日常の思いつきで構成していくことにしました。

 中国、特に北京は、私にとって1948年まで三つ子の魂を育んだ懐かしい場所です。また大連は2001年から2011年まで過ごした街で、9・11も3・11も中国の情報で知った事件ですし、経済がぐんぐん成長してゆく真っ只中でその息吹を感じて過ごした日々でした。3ヶ月は上海でした。すでに中国の先頭をきって駆けてゆく上海、ごったがえす人波に乗り切ることのできない自分がそこにいました。

 中国関係の話がよく登場するのはそのせいです。現在、日本では冷静な中国情報がとても少ないのを寂しく残念に思っています。日本の最大の貿易相手国は中国ですから、互いにしっかり自立した外交関係を築いていかなければならないのに、と焦りに似た気持ちも持っています。

 北京物語にはリンクを張っておきます。また1941年から1948年までを北京で過ごした父の手記は、あまり知られていないものの重要な歴史の記録として「北京物語」の上部に「手記原文」と名前を付けて、章ごとにクリックで見られるようにしてあります。再びこのサイトで直接見ることができるようにしたいと思っています。

北京物語URL http://forest-beijing.lolipop.jp

 

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