大阪で「維新の会」が勢力を伸ばして行政も議会も牛耳っています。以前の投稿でも書きましたが、「維新の会」の胡散臭さ、ひいてはそこに潜む全体主義的な危険性がスルーされてなぜ支持されるのか、その点をもう少し考えてみたい、と思いました。幸か不幸か、今回の万博騒動で維新の胡散臭さが少し引きずりだされてほっとするのですが、これが終われば再び人々が忘れるころを狙ってまたぞろ頭をもたげるのではないか、と憂えてます。日本がとんでもない全体主義への道を歩まないよう「維新の会」につながる芽をいつもいつも潰していかなければなりません。
新自由主義が日本で大手をふって歩き出した小泉政権時代。努力すれば成功するのだからうまくいかないのは努力不足の証である、という理屈のもとで、人々は終わりのない競争に追い立てられ分断させられていったその結果が、多くの人々が互いに孤立している大衆社会の成立なのかもしれません。そこそこうまくいっている人々は、その果実が自分の努力によるものだと信じて、横取りされまいと自分の中に取り込みます。うまくいかない人たちは、それが自分の責任によるものだと自らを責めるようになります。行政は責任を逃れるためにこの状態を利用します。
人々の妬み嫉みを煽り、他人が得をすることを許さないことで、うまくいかない人をさらに分断させ協力させないように敵を作り出していきます。社会の下層のさらなる分断で社会全体は下に向かうばかりで決して上昇しなくなります。さすがに近年はこの状態をおかしいと思う人々が出てきました。しかし、大阪では維新行政とメディアが一体となってこの間違った状態を補強する方向に向かっていった結果、社会が疲弊しているにも関わらず、成功しているかのようなプロパガンダが平然となされています。
注意深く観察すればわかるようなことも、プロパガンダによって嘘がまかり通ります。噓がばれたら適当に理由をつけて(その理由も嘘ですが)無節操な方向転換をしてやり過ごします。近年本当に考えない日本人が増えました。結果に目を向けず維新行政がつくりだす自画自賛に巻き込まれて簡単にOKをだします。打ち上げ花火のような施策あるいは目新しそうな施策を絶えず繰り出し、人々の注目を集めます。そこで使われる注意を要する言葉は「絶対」と「一切」です。人々がこれを信じても、かれら維新は状況に応じて平気でそれをひっくり返します。嘘をつくのに躊躇がなくモラルというものがありません。維新の議員の犯罪数が際立って多いのもさもありなんと納得。
パブリックをできるだけ縮小させるように維新行政は動きます。「縮小」を「無駄を省く」という言いかえで胡麻化します。本来行政の担う大きな役割は、パブリック部門を充実させることのはずですが「無駄を省く」という言葉でパブリック部門を削り、私企業に投げ与えて利益誘導型の利権政治を生み出しています。「大阪維新の会」では保健所の削減、公立高校の廃校、バス路線を私企業に投げて廃線、道路管理の不行届きなど、医療・教育・交通という本来行政が担うべき公共インフラを貧弱化させてしまいました。
書きだせば限がありませんがその現状から目を背けて支持している人たちは、結局「大阪維新の会」になにを求めているのでしょうか? 新自由主義の信奉者が「今だけ金だけ自分だけ」で維新を信奉するのはわかります。しかし、分断されている困窮者たちの支持理由は何でしょうか? 彼らは自身の非力を知っているがゆえにいつも次々に「改革」をぶち上げる維新に夢を託しているのでしょうか? 無責任な言いっぱなしの「改革」に夢を見て自分では考えない彼らも、ついに万博でその夢が覚めるときが来ているのかもしれません。
さて、全体主義というものが、プロパガンダで一方的な意見を刷り込まれ、人々が自ら考えなくなり、絶えず「改革」が叫ばれて、積極的にそれに人々が関わり、それを主体的と誤解することから、国家への帰属意識を強制されることなく強め、しかし、方向の一定しない施策に振り回され、最終的には人々をボロボロに破壊するという経過をたどるというものだとすれば、大阪はいままさしくその実験場になっていると言えます。
むしろ現代の全体主義のありようを体現する場として大阪が機能しているように思えて興味深いのです。世界全体でそのような政治勢力が台頭してきていることと相俟って、大阪に出現した現象は決して日本だけのものではありませんが、維新の基本的な程度の低さが際立っているだけに、その現れ方が漫画チックで、万博を機にその漫画っぽさが亢進し、人々がちょっと変なのでは、と気づきだしてるのがせめてもの救いかもしれません。
しかし、日本人の考え方には維新の発想と親和性があります。同調圧力が半端でなく多数に従う傾向は、いったん熱狂が生まれるとき多数であることを免罪符として思考停止を起こしやすいのではないか、と思ってきました。「大阪維新の会」はとりあえず多数派になることを目指して口当たりの良い嘘を交えた改革と批判によってすべてを選挙に集中させる手法で大阪を手のうちに入れたのです。「絶対」と「一切」の言葉でころっと騙される人のほうが不思議なのですが、それが民度というものなのかもしれません。
多数決が民主主義を保証するものではないことを、あらためて考える必要があると思います。多数にくっつくことで自分が権力を持ったような勘違いを起こさないために(そして弱い人間ほど弱さの代償として多数にくっつきたがる)、国家と個人の距離を冷静に測ることで、冷静に政治を観察し、無関心からの脱却を試みなければ日本は永遠に過ちの円運動をつづけるのではないか、と悲観的になります。
今回の余りにもお粗末な万博騒ぎでいったんは支持を失うかもしれませんが、この潮流は日本社会の弱みにあまりにもフィットしているがゆえに、機会が訪れれば再び息を吹き返しそうです。そういうことがないように全体主義の小さな芽を普段からひとつずつ潰しておかなければなりません。大阪は、独特の文化を持つ魅力的な街で好きでした。維新によってずいぶん貶められた印象の街に変わりました。大阪の人には、万博で維新の実態が暴かれたのを好機として、それをひっくり返すために頑張ってほしいと思っているのですが…。
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