絶望の日本-希望はどこに(1)

社会問題
四条大橋から遠く北山を見る(2022/12/29)

 冷静に日本に絶望している、というのがこのところの私の本音です。安倍元首相がいなくなったことで、もう少し社会の空気が和らぐかに思えたときもあったものの、結果的には政治を中心に、坂道を転がり落ちるかのような危うい社会の雰囲気が醸成され、その怖さをひしひしと感じる毎日です。

 何よりも衝撃的であったのは、日本の政治がカルトに取り込まれたカルト政治であったことです。旧統一教会問題はもちろん、日本会議や神道政治連盟など宗教に名前を借りたカルト団体との政策の共通性がそれを物語っています。政権与党がその真っ只中にいました。選挙のために恥も外聞もなく票集めに奔走する政治家の姿は、もう政治家以前の魑魅魍魎集団としか言いようがありません。

 「民主主義」というお題目は、日本では責任逃れのための多数決維持装置として機能し続けてきました。多数決にだけ根拠を持つ「民主主義」は国民の口をふさぐために有効でした。なぜなら多数さえとってしまえば民意だと言ってなんでもできてしまう怖い装置、それが日本での「民主主義」でした。なにか変だ、反対したい、と思って行動したくても、せいぜい署名するしかない、署名を集めても馬耳東風で無視されてしまう、そんな空気が社会に蔓延し、いつの間にかあきらめさせられています。

 国民がこんな政権を選んだのだから、と言いますが、私は自民党に投票したことはありません。少数派の意見もそれぞれが一票として尊重されるべきでそれこそが民主主義だ、と私は思うのですが、多数派の横暴を「民主主義」と思っているこの国では、独裁への親和性こそあれ、そこからの明るい未来など考えようがありません。

 さらに国民の側でも、これはメディアの機能不全と教育の影響が大きいのですが、ゴシップに群がることで深く考えることを避け、自ら思考して意見を持つことを疎んじ、大きなイベントがあるとそこになだれ込んで、すべてを水に流し去って悔いることがありません。こう考えるとき、教育政策は政権にとって大成功していると言わざるを得ないでしょう。第二次安倍政権以降、安倍派の有力議員が文科大臣をほとんど独占してきました。唯々諾々と国家の政策に従う羊の群れを作り出してなんの後悔もしない無思慮な大人たち。その国家がカルト化しているという茶番、なんだかめまいがしそうです。

 そしてさらに「防衛力の強化」の大合唱の中、戦争ありきで進められる議論の幼稚さに暗澹たる思いになります。そりゃこんないい加減な議論しかできないお花畑の与党を見ていると、米軍だって日本に任せたらとんでもないことになるから支配下に置かなければ、という気持ちになるのもわからないではないという皮肉。如何に巧妙にアメリカの軍産複合体が、継続的にさまざまな国を戦争に巻き込んできたか、と振り返るとき、次は日本の番だぜ、と言われているように思います。

 「台湾有事」は、思考停止状態の日本人にむけて、アメリカに踊らされた安倍が繰り出したキャンペーンです。私は台湾と大陸との経済的なつながりの深さを知っているだけに、台湾の人々は自分たちのことでの日本のお節介を迷惑だと感じていることでしょう。あるいは利用できるところは利用しても信用はしない、という冷静さとしたたかさは間違いなく持っているでしょう。日本人はあまりにもアメリカに手玉に取られてきて、手玉に取られているという自覚すらないために、他の国が一生懸命外交でバランスを取って紛争が起きないようにしている努力がわからなくなっているのでしょう。

 日本の外交力を見るとき、その貧弱さに涙が出ます。こんなに防衛力一辺倒で議論が進んでいるのに、外務省は何をしてるんでしょう。ひたすらアメリカの方向をみているだけのような気がしてなりません。1976年以降の中国は、文革で出遅れた国の惨状を挽回するために、必死に力を注いだのが外交でした。外交で時間を稼いで、国内の政治を整えていくための援助という資金調達を外交で求め、当時10億人ともいわれた人口を維持してゆく手腕は鮮やかでした。さまざまな国の力関係のバランスを取りつつ、それはしたたかでもありました。

 台湾もしたたかでした。本来ならば蒋介石が台湾に逃れたとき、アメリカの援助を求めていたのですから、そこに米軍基地ができても不思議ではありません。しかし沖縄には基地ができても台湾にはできず、ニクソンは大陸の中国政府を正式な中国政府である、と承認しました。この手腕には驚きます。ま、戦後の蒋介石の国民党政権が腐敗の塊であり、台湾へ逃れた後も、その腐敗ぶりの報告にトルーマンがいくらお金をつぎ込んでも無駄だ、とさじを投げていたという話もあります。

 ひるがえって日本を見るとき、いまやアメリカの顔色をうかがうだけの外交に堕してしまった現状に暗澹たる思いです。2002年瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件が起こりました。当時、私は大連在住だったのでその顛末には関心を持っていましたが、ある領事の奥さんが、個人的に他の領事をあげつらい、同時に「日本の外交は結局アメリカしかないのよ」と驚くようなセリフを吐き、その品位のなさに閉口しました。この事件で思いがけず夫(領事)の玉突き出世の筋道が絶たれてしまった腹いせでしょうか。

 さらに台湾のことを考えるとき、私は沖縄のことも考えてしまいます。余りにも対照的だからです。沖縄は、明治12年まで清と薩摩藩とに両属する形で琉球王国としての独立性を持っていましたが、明治政府によって清との関係を放棄するよう求められ、王族はその地位を追われて、琉球王国は崩壊します。いわゆる琉球処分と言われている事件です。太平洋戦争では本土防衛のため、という言葉で唯一国内戦が県民を巻き込む形でたたかわれ、多くの犠牲者を出し、戦後は1972年までアメリカ軍の統治下におかれていた沖縄。

 現在防衛力強化の名目のもとに、沖縄の島々に自衛隊が武器を配備し、本島にはアメリカ軍基地が日米地位協定の名のもと、治外法権の土地が存在しています。本土政府は、沖縄に防衛上の厄介な問題を丸投げして、自らの問題としては知らぬ存ぜぬを貫いています。アメリカ軍基地がある限り、自衛隊がいる限り、それは沖縄県民を抑える装置としても機能するでしょう。琉球王国の歴史を考えて仮に沖縄の独立を想定するとき、この抑圧装置がくっきりと姿を現すのです。

 そして日本本土も首都圏に横田基地が存在し、アメリカの大統領はそこを通って自由に日本に入国できるという事実は、そもそも日本の主権の侵害であるのに、何も言えない。これは日本の首都圏が、ひいては日本政府が、アメリカに首根っこを押さえられていることを示します。それを、政界はもとよりマスメディアも表立って論じないのは、異様だと思ってきました。

 そして戦争ありきの防衛力強化の大キャンペーンに踊らされる多くの国民(半数以上が賛成との世論調査)、なんと情けないこと、としか私は表現できません。想像力の枯渇、共感性の貧困が行き着く先は、人間性の欠如したギシギシした余裕のない社会なのでしょう。国民は、自分の程度に見合った政府しか持てない、と言われています。防衛力強化は実際のところ、戦争を始める力の強化になっていること、この幼稚な戦争ごっこを止めなければ日本は戦争を始めてしまうのでは、という恐怖に駆られています。もちろんアメリカの代理としてアメリカ軍の遠隔指揮の下、日本が中国を中心とする東アジアに仕掛ける戦争です。

 戦争は、ただただ破壊あるのみで最終的には人間の精神の破壊にまで至ることをなぜわかろうとしないのか、私の理解を越えてしまっているという点でここにあるのは絶望です。1997年の文芸春秋で、半藤一利さんは早くも、日本人は戦争をしやすいから気をつけることとして、国民的熱狂をつくらないこと、と論じてます(何月号かは忘れました)。世論調査で国民の半数以上が防衛力強化に賛成している、という事実は、国民的熱狂が形成されようとしている証なのでしょうか。

 さらなる絶望は原発政策です。これも具体化された日本滅亡のシナリオです。つぎの回でこれについて考えたいと思います。

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