参院選と民主主義

社会問題
眩い夏空を覗く(2022/07/06京都四条通で)

 7月10日の参院選の投票日が近づいてきました。相変わらず投票することが国民主権の発露の形であると語られ、たしかにそうなのですが、投票する側にとってはこの頼りない1票が国民主権だ、と言われても心の底のなんだかなぁ、という思いは振り切れないのではないでしょうか。少なくとも私はそう思いながら、投票をしてきました。

 そういう意味で投票する側と投票される側とでは、見える景色が違うのではないか、と最近思い始めました。投票する側では票がバラバラに散って見えますが、投票される側では票が団子になって見えているのでは、という思いを禁じ得ません。どの程度の大きさのお団子かが世論調査という名前で示されます。この世論調査という代物が果たす役割は、あくまでも投票される側の動きに反映されるもの、と思うのですが、投票する側から眺めると、それぞれの個人の選挙における主体性が著しく損なわれるような気がします。

 これは私個人の感想なのでしょうけれど「自公で安定的過半数獲得か」などとメディアが伝えるとき、ふと私の1票が限りなく軽くなって空中を浮遊して消えていくような景色が頭の中に浮かびます。投票率の低さが問題視されますが、棄権する人の心は私にはよくわかります。「たった1票なんか、あってもなくても関係ないし…」「どうせ結果なんか決まってるのだし…」「意味ない投票のためにわざわざ出かけるなんてまるでブリッ子みたい」と棄権する言い訳があちこちからぶつぶつ聞こえてくるような錯覚を起こす投票日。

 というわけで、私にとっての投票行動は、嫌な奴が少しでも票を減らすようにという方向に転換することになりました。これならそれなりの主体性が保持できるかも、と思いながらです。このサイトで何回か取り上げてきた「維新の会」のヤバさ胡散臭さについての考察は、それの延長線上に出てきた行動でした。そう考えるとき、YouTubeで見た郷原信郎氏の「落選運動」の意味がすっと解りました。

 世間的には、選挙制度=民主主義ととらえられているようですが、選挙制度は民主主義を担保するための必要条件ですが十分条件ではない、と思います。最近の調査で、日本の選挙民は政策なんか見ていない、ということが実証された、とか。気に入った政策と支持政党が無関係である、という調査結果に、わかっていながらもやはりそうであったか、とがっくりしました。

 あらためて日本はいつの時代を生きているのか、と問い返す必要が出てきました。近代は市民社会の確立の上に出来上がってきたはずでした。市民社会とはそれまでの家系家柄などの固定的な特権の上に成り立ってきた支配勢力をひっくり返して個々の市民によって作り上げられる社会です。その社会が作り上げられる過程では、賛成者や反対者によって議論が繰り返され政策が吟味される、その成果を問う舞台のひとつが選挙です。

激戦区と言われる京都選挙区のポスター

 長年、なぜ日本では数年を除いて、なにがあってもほぼ自民党が与党の座に座り続けるのか、大変不思議でしたが、政策でなく慣例と組織関係でのみ、ひたすら投票用紙に「自民党立候補者名」を書き続ける多くの人の存在が明らかになったというわけです。だれに投票したかはわからないはずだから、自分の考えで投票すればいいのに、組織や人間関係で言われた通りの投票を唯々諾々とする多くの日本人、実に不思議を通り越して不気味な行動様式です。そこに芸能界の人気投票的な面も加わってきて劣化著しい投票行動。

 ただ最近、明るい兆しを感じさせる動きがありました。絶望しそうな空気の中、杉並での区長選挙の経過はこれこそ市民社会のお手本選挙といえるものでした。区民が自らの手で候補者を選び、選挙で政策を問うていくありように、私は胸の中で「これ、これ、これなの」と何度も共感して、心が軽くなりました。

 こういう内部からの声を結集して運動を組織していく形は、私にとってどこか懐かしく、思い出したのは、高校時代に経験した文部省のおこなう全国一斉学力テスト反対運動でした。あっという間に運動を組織して声明を出し、意思をはっきり表明する学力優秀な(これ重要‼)同学年の生徒に圧倒されながら、一生懸命考えました。最終的にそれぞれが自分でテストを受けるか否かを決断する、という結論になりました。はっきり覚えていないのですが受験した生徒は全体の10%余りだったと思います。

スクールカード(名刺の大きさ) 高校進学がまだ特別な意味を持っていた時代の名残のカードか。

 運動としては成功したのですが、受験した生徒もテスト問題の矛盾点について語ってくれて、誰もが自分のこととして真剣に受け止めていたのがわかりました。民主主義が多数決でなく少数意見の尊重でもあると学びました。この運動はメディアも注目していましたが、デマが流れたり変な風に受け止められることを警戒して、メディアに感づかれないようバラバラに行動しつつ、最後に集会がもたれて報告がありました。テレビのニュースで映像が流れましたがこの集会には全く気がついていません。このニュースで高知県の中村高校でも同じくテスト反対運動が起こっていたことを知りました。

 教師はすべて静観という態度をとっていました。まだそういう寛容な時代だったのですね。教師が「あれが市民運動の形なんだよね」と言ったのを今更ながら感慨深く思い出します。

 参院選では、あらためて誰のために政治があるのか、という民主主義の原点に忠実な政治家を選びたいと思います。

⁂公開しようとしたときに安倍元首相が撃たれた、というニュースがと飛び込んできました。これで選挙には「たくさんの同情票が集まる」という声も聞かれましたが、単純にそんな事情で支持政党がコロコロ変わるという日本の実態がとても悲しいです。事件の詳しいことはまだわからないのですが、私が思ったことは、これで安倍元首相の絡む数々の疑惑がすべて1件落着にされるのではないか、本当の闇が暴かれないまま、口封じされたのではないか、と。寒い時代の幕開けにならないことを祈るばかりです。

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