参議院選挙が近づいてきました。世論調査によれば自民党はともかく「維新」の躍進ぶりが大きく取り上げられています。「維新」は、私とは決して相いれない政党であるだけに、逆にいったい誰が支持しているのか、その理由が何なのか、を考えることでいまの日本の姿がわかるかもしれない、と思って再び「維新」について取り上げたいと思いました。
日本が現在、衰退の道をたどっていることは無意識に多くの人が感じているのではないでしょうか。さらに貧困層が増大し、持てるものと持てないものの分断が激しくなっているのを、コロナが促進したのは確かです。このようなゆとりのない社会で、人々の心の中に潜む憎悪が少しずつ顕在化し、はけ口を求めているような気がしてなりません。社会全体に憎悪が広がるとき、その現れとして暴力的な空気の蔓延が見られます。
貧困者の憎悪の矛先は、人々の周辺で同じような生活をしている人たち、あるいは社会的弱者に向かいます。理由は、自分の感じている社会の理不尽さを目の前で見せつけられることへの近親憎悪的な憎悪です。鏡像への憎悪です。自分はそうではないと否定したい気持ちが激しい怒りとなって暴力という表現をとります。本来なら協力し合わなければならない人たちがお互いを非難する不毛さが悲しいです。
さらに貧困者だけではなく、普通の市民層にまで、何でもないことにいら立ち怒鳴りあい、それぞれがバラバラに孤立していく現象が出てきました。自己責任という言葉で、弱者を切り捨てることで自らを正当化し、それを自分の存在基盤として縋り付く人たちには、エリートも含まれます。敵を探し求める心理の抑制が効かなくなっているようです。
さらに「正義」という名前を付けた憎悪が現れました。「正義」という言葉の裏にこめられている意味は、自分が絶対正しい、という原理主義的な発想です。この発想は、宗教と絡んで世界中に存在します。誤解しないでいただきたいのですが、宗教は憎悪とは最も遠いもののはずです。文化の違いとして意識されるそれは価値観の違いであり、互いに尊重されるものです。にもかかわらず、それを利用した「正義」のぶつかり合いがいまも世界中で見られます。日本にもそれが浸透し始めています。国家の次元と個人の次元との両方で並行して存在するのがややこしいです。
大変大まかな憎悪の形を述べましたが、要は社会の底辺、中枢、国家に至るまでそういうものがあふれ出していると言いたかったのです。ニュースや記事のコメント欄を覗くと、まじめな意見にまざって眉を顰めたくなるような暴力的なコメントが普通に見られるようになりました。大っぴらに好戦的な意見も述べられています。
さて「維新」に関してですが、日本社会での彼らの支持拡大は、これらの憎悪がエサになっている、と思いました。憎悪と暴力の拡大への共感が彼ら「維新」のガチの支持層にみられるのではないでしょうか。例えば身近で「得をしている」と思われる事例をあげつらって世論を煽る手法はその典型です。特にメディアを使って煽ることに熱心です。「維新」には実質的に政策と呼べるものが見当たらないのです。とにかく「得をする」ことを許さないという名目でのパフォーマンスで押し通してきた彼らは、自身では「得をすること」に熱心です。まさしくダブルスタンダードです。彼らの牙城、大阪ではひたすら万博とカジノの推進だけを訴え続け、利権に群がり税金を好き放題に使う、というやり方もその一例でしょう。
あらためて考えると、「維新」には誰のために政治を行うのかというコアな部分がないということに気がつきます。与党がカバーできない層を代わってカバーするくらいしか、政策がないことに慄然とします。あるいは与党以上に与党で、多分に昭和的な高齢化した自民党公明党に代わって、若年層や中堅層を叱咤激励する役割を引き受けて、その利権構造の中に入り込みたいという欲が透けて見えます。お金を用意すれば公認を得やすいため、議員になりたいだけの人間が集まった政党ともいえるでしょう。ですから議員のモラルそのものに問題があるわけで、さまざまな違法行動が摘発されているのは、理の当然かもしれません。メディアを取り込み、プロパガンダに精力をつぎ込み、選挙を勝つためのノウハウに長けている「維新」は、このままではガン細胞のように政党助成金を得て、ひたすら増殖をつづけていく、こんな悪夢が頭をよぎります。
そして結局のところ「維新」は皮肉なことに誰かに利用されることでしか存在意義がないわけです。現在、ウクライナ戦争で世界中がざわついている中、これをチャンスとして戦争国家の道を辿ろうとしている元首相の安倍は、アメリカの道具に利用されてその地位を保証されているとしか見えませんが、「維新」はその尻馬に乗って、国民を憎悪で分断させ、安倍元首相は周辺諸国への憎悪を煽ることで憎悪のはけ口をふたつ作り始めているように見えます。安倍元首相も「維新」も同じ穴の狢です。

かつて半藤一利氏は、1995年だったか文芸春秋の記事で、日本人は戦争に走りやすい国民であると警告を発し、それを防ぐには国民的熱狂をつくらないことだ、と述べていました。国民的熱狂にのせられやすい日本人の弱点を鋭く突いている、とひどく感心したのでいまに至るまで覚えています。
その国民的熱狂が、ウクライナ戦争をきっかけに煽られ始めました。なぜウクライナが台湾有事の発想に安直に転化するのかわからないのですが、安倍元首相はこれを日本の軍事費増大の千載一遇のチャンスととらえて、煽り始めました。でも日本の軍事費の多くはアメリカ政府を仲立ちとした軍需産業に吸い込まれていくと言われています。あるいは安倍政権のときにトランプと交わした膨大な額の軍備売買契約が防衛省の予算を圧迫して防衛省にお金がないので、それを糊塗するためにも軍事費増大が必要なのだとも聞きました。あるいはアメリカの軍需産業からのライセンスで日本で武器類、場合によっては核兵器をも生産させる予定があるとも聞きました。
いずれにせよ、円安に絡む物価上昇で窮乏生活に追い込まれる人々が増大している中での軍事予算の増大を、元首相が愛国を名目とした道具に利用している点で実に卑怯です。これを踏み絵として国民の分断を図る政府も疎ましいのですが、戦争ありきで強引にことを進めようとする元首相に外交はどうした、と叫びたい。窮乏している人たちをさらに「得をしているかどうか」で大っぴらに非難を煽り、分断を図る「維新」は政府の片棒担ぎです。
わたしたちは冷静にならなければなりません。台湾と大陸は経済的に密接な関係を作っています。台湾の人々は合理的な思考の下で、実質的な大陸との関係を築いていますし、日本に余計な手を出してほしくない、というのが本音ではないでしょうか。何よりも台湾は日本の植民地であったということを台湾の人々は忘れていないと思います。忘れているのは日本人です。日本に対する台湾の人々の感情は基本的に悪くないにしても、それを利用しようとするならば、手ひどいしっぺ返しを食らうでしょう。
私がそう考えるのは、2000年代、実際に台湾で事業を営んでいる人たちに出会ったことがあり、彼らが経済的に投資しようとしているのは大陸にたいしてだったからです。当時は日本への投資は考えられていませんでしたが、現在の安い日本ならば、投資対象になるのかもしれませんが、それも安全が保障されている限りのことです。
アメリカはさまざまな国を戦争に引きずり込んできました。ウクライナがある意味でアメリカの代理戦争の様相を帯びているときに、今度は日本が中国との代理戦争に引きずり込まれてはなりません。その結果がどのようなものか、を私たちはウクライナの人々の悲惨という形で眼前に見ているのです。
だんだん話が大きくなってしまいましたが、私が言いたいのは憎悪を煽る人々が日本でのさばってきていることであり、それを許していればとんでもない方向に国全体が向かう怖さなのです。「維新」の進出は、そういう人々の受け皿となっているようで、余りにも不気味です。参院選が近づいているときだけにいたたまれない思いで、これを今回のテーマとしました。
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