流れ去る時間

雑感
びわ湖で心が開放されるひと時を過ごす(2022/04/25)

 4月も終わりに近づいて、今年は時間の流れがいつになく早い、とあらためて感じています。次々に起こる出来事に目を奪われるまま、それを消化するだけで手いっぱいになっています。それとも、それは私個人の感じ方なのでしょうか。たしかに10歳までの子供の時間は長かった。誕生日が来るたびに、いつまでたっても一桁の年齢がつづくように思っていたのを覚えています。

 それから節分です。年齢の分だけ豆を食べることができる、というわけで片手の中の少ない豆は大変切ないもので、祖母のようにたっぷり食べることのできる年齢は、遥か彼方なんだ、と思っていたのです。以前どこかで読んだ実話の笑い話にこういうものがありました。
 <祖母が孫娘に向かって「人間はね、昔は猿だったんだよ」というと「じゃあ、おばあちゃんはいつ人間になったの」>

 ウクライナ・ロシア戦争によって、世界中が揺さぶりをかけられたかのように落ち着かなくなっています。あふれる報道、目をふさぎたくなる悲惨さ、早く停戦して無駄に人が亡くなる事態を終わらせてほしい、という気持ちとは裏腹に日常が過ぎてゆくことも、時間の流れを速めているのでしょうか。現状を見るとまるで終わりそうにないまま、侵攻後あっという間に2ヶ月が過ぎてしまいました。今度も国際政治というものの酷薄さが剥き出しになりました。

 他方で日本のコロナは、ウクライナの戦争でちょうどいい口実ができたとばかりに、感染しない限り、ないと思えばそれはない、という無視によって実態がわからなくなっています。しかし感染者は依然存在しています。私には2003年COVID-1の感染が騒がれている中国大連に滞在していた3月20日、イラク戦争が勃発したのと重なって見えます。

 スペイン風邪も第一次世界大戦をバックに広がったことを思うとき、疫病は戦争と深い関係があるような気がしてしまいます。政情などで人々の心が不安定になるとき、それがストレスになって一地域だけにおさまらず疫病の蔓延を招くのでしょうか。

 私は日記をつけています。今年になって「昨日書き忘れたから書こう」と思って日記帳を開くと、3日分とかひどいときには4日分とかが空白になっていて焦ることが増えました。以前にはなかったことです。1週間のうちでも、月曜日から順に時間の経過スピードが次第に速くなります。月曜日はなぜか長く感じます。月曜日は午後になるとすでに火曜日になったような気分で、火曜日のゴミを出しかけて「待てよ、まだ月曜日だったよな」と自分に言い聞かせることもあります。また火曜日になって月曜日のことを思い出すと遥か以前の出来事のような錯覚を起こします。ところが、金曜日から日曜日までは一瀉千里。日と日の区別がつかないくらい。

 旅行に行ったときは時間の伸び縮みがはっきりします。新しい体験がつづくのですからそれぞれの輪郭がはっきりしていて、感覚が生き返ってきます。すると毎日がすべて独立した記憶になっていくためでしょうか、実に長い1日がしばらく続きます。子供のころの新鮮な時間を思い出します。さて、私の経験では10日をすぎると、旅行しているという慣れが出てきて少しずつ時間が普通の1日になっていくようです。子供の時間を思い出しつつ日常から脱出できるのが旅行の醍醐味なのかもしれません。

 さて今年の時間は、出来事の重大さと当事者性の薄さの狭間に嵌ってささっと流れ下っているようで、我ながら落ち着きがわるいままの状態です。歳をとると時の過ぎ去るのがはやくなると言われてきました。そういう一面もあるのかもしれませんが、落ち着きが悪くなるとは聞いていませんから、今年特有の事情があるようです。その一つが戦争による人間のとんでもない闇を見ていること、それが普通の人間の中に存在しうるのを認めることへの抵抗となって私を悩ませているのかもしれません。のっぺりとした戦争報道―しかしいつも追いかけられているような悪夢に似た怖さがあります。

 どうかどうか早く戦争が終わってほしい、命が無駄に失われることがなくなってほしい。私が祈るのはそれだけです。どうすればいいのかはわからないけれど、冷笑されようともその基本は守りたいと思っています。

*前回、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチがウクライナ出身の作家であると述べました。生まれたのはウクライナですが、育ったのはベラルーシのミンスクで、ベラルーシ大学を卒業しています。現在はドイツに逃れている、と聞きました。

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