「維新の会」の胡散臭さ(2) 

社会問題
紅梅(小雪が舞う公園で2022/02/17)

 前回、「日本維新の会」(以後「維新」と省略)がドストエフスキーの「悪霊」の喜劇的再演を思わせる、と述べましたが、この2週間の間、大阪でのコロナの突出した蔓延状況と「維新」の無策と居直りを見るにつけ「悪霊」が背景とし利用したロシア社会の混沌よりも、悪質な匂いを感じています。この吐き気のするような感覚、他方それがメディアを通してあまりにも軽く弄ばされていることのギャップ、人間存在の根幹にかかわる事態が進行しているのに、警告が上滑りして人々に届いていないような虚しさに襲われます。

 私の「悪霊」との出会いは随分以前、とはいえ2、30代だったでしょう。深く読み取ることなどできていなかったと思いますが、何とも言えない嫌な感じが全体に漂っていました。それがこの作品をいまに至るまで記憶にとどめている大きな原因だと思います。中心人物として設定されるスタヴローギンは、私にとってはあくまでも象徴的な人物で、実在感で圧倒していたのは、次々に騒ぎを引き起こしては無責任に罵り嘲り人々を支配していくピョートルでした。

 今回の原稿を書くにあたって、再び「悪霊」に挑戦すべく異なった訳で読みたくて光文社文庫の4冊を購入しました。ただ今回の内容には間に合わないので、これは以前の印象から書き進めていきます。勘違いがあれば次回に訂正したい、と思います。

 さて「悪霊」の喜劇的再演の舞台は大阪です。再演にふさわしい舞台です。次々に騒ぎが起こります。騒ぎを引き起こすのは「維新」の面々。最近では菅直人のヒトラー発言に嚙みついています。が、私に言わせると、逆説的ですが菅直人は橋下徹を誉めすぎているとしか思えません。扇動する力量はヒトラーのほうがはるかに強いのです。演説が上手いと言われているのだから、橋下はこれを否定するほど謙虚ではない、というのが私の読みでしたし、橋下も満更ではなかったか、と思うのです。しかし「維新」の面々が違う方向に騒ぎを持って行って炎上させました。炎上させるという目的さえ達成されればあとはどうでもいい彼らは、次の騒ぎを探し始めました。

 そして探したのが名誉棄損訴訟。「維新」は騒ぐのが仕事ですから、結果よりもとにかく騒ぎを作ってメディアに登場する回数を稼ぎます。このメディアを利用しやみくもに勢力を拡大する、というのが、いまふうです。政治のウィルスとして登場したのが維新でしたが、皮肉なことに本家本元のCOVID19というウィルスが登場してきて、騒ぎをつくるには手に負えない事態になって泡を食っています。COVID19は人間と関わりなく登場してきたので、予想外の反応に、落としどころがわからないまま、65歳以上の救急車の使用制限、感染者への保健所からの連絡制限、食糧配布も1割、という結局は命を切り捨てるというトリアージに走ってしまって、モラルも道義もないという「維新」の本質をさらけ出してしまいました。

 「維新」がどのようにこれを誤魔化すのか、に注目していましたが、あちらこちらに喧嘩を売って訴訟をちらつかせる作戦に出たようです。さらに今後、万博やカジノやIRが具体化する過程で、なにが飛び出してくるやら…。論理的な一貫性がないのも特徴ですから、目的が手段を正当化するとばかりにその場その場で矛盾していても一向にかまわず、やりたいことをやります。いまのままでは大阪府政・市政はとことん財政的に吸い尽くされて荒廃してゆくしかないと思われます。大阪はすでに「維新」の草刈り場になっています。

 さて、「悪霊」の登場人物にあてはめるなら、橋下徹はさしずめピョートルの役どころです。本人はたぶんスタヴローギンの役どころを演じたいはずですが、どう考えてもピョートルにしかなれない役不足を自覚しているのではないか、と思って行動を観察しています。もう一人は松井一郎です。ピョートルの言説部分は橋下、脅しの迫力でいうなら松井、というわけで2人でピョートルひとり分にあたるのかもしれません。では吉村洋文はどの役どころになるかと考えるとき、5人組でピョートルと親和性の高い人物がふさわしいのかもしれません。ピョートルを崇拝し、煽られて行動する人間です。

 あとはスタヴローギン役です。自分をも含めて誰も信用することのできない人間、冷静で無思想、ニヒリスト、モラルへの憎しみなどが特徴で、極めて優秀な人間です。象徴的人物であるにしてもリアリティもある、実は「維新」にはだれか裏側にこういう人間がいるのではないか、と思ってきました。現実においては、黒子としての存在なのかもしれません。こういう人間の存在を考えざるを得ない理由として、騒ぎのおこしかたのタイミングが絶妙であること、これによって何か重要なことを隠し、選挙戦で周到な得票計算をしていること、こればかりは単なる勢いでは達成できないはずです。

 崇められ、他人を操ることにカタルシスを感じつつも、それに伴う虚しさ・依拠する自己のない狂気に、スタヴローギンは自死を選びます。「維新」の黒子たるスタヴローギンは果たしてこのまま黒子を継続していくのか、それとも政権獲得の悪夢の末に姿を現すのか。いまはとにかくこの悪夢の実現、日本そのものが悪夢の舞台になることをなんとか阻止しなければ、と願いながらこれを記述しています。

 大阪を舞台に跋扈する悪霊どもの群れが日本の忌まわしい病理を体現しているかのようです。21世紀になってから、COVID19という疫病が「維新」という忌まわしい集団の悪霊的本質を浮き彫りにするとは、ドストエフスキーも想像だにできなかったに違いありません。いいえ、あるいはこのような事態をすでに見抜いていたのかもしれません。

 *参考文献として「ドストエフスキー『悪霊』の衝撃」(亀山郁夫 リュドミラ・サラスキナ著光文社新書2012年刊行)に目を通しました。2011年にやり取りされた質問と回答においてサラスキナさんは以下のように悪霊を描いています。
<「悪霊」は世界を作り替えるという政治的悪霊たちの誘惑を描き出した小説であり、悪と破壊の力、すなわち悪霊にとり憑かれるということが何を意味するかを描き出した小説でもあるのです。>

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