10月に行われた衆院選で一気に拡大した「維新の会」について、私には常々なにかとても嫌な気分がつきまとうのですが、それはなぜなのか、少なからざる人々がなぜ支持するのか、そのあたりのことを考えてみたいと思いました。日本の社会崩壊に密接に関係するような不気味さを感じています。私などがいまさらあれこれ言わなくても、「維新の会」に警鐘を鳴らす人はそれなりにいますし、もっと精緻な分析がなされているのですが、それとまったく無関係、見事なまでの無関係な人々のなかに支持者がたくさんいることが気味悪く感じられるのです。
基本的な特徴として私が感じるのは、無思想であるということです。日本社会はもともと宗教色の薄い社会であり、哲学や思想といったものが一般の人々の生活と意識的な関係を持っていないわけです。したがって日本では政治集団のなかに哲学的な思想を見出すことは、大変難しいのかもしれません。しかし大まかなくくりとしての思想を考えるとき、実態がどうであれ、自民党の伝統的と思われる日本社会への回帰、公明党の創価学会、立憲の中にある近代議会制度として現れる民主主義への信頼、共産党の社会民主主義への理念などそれぞれ掲げているものがあります。
しかし「維新の会」は、大衆受けのすることを探し出して、騒ぎを作ることに集中しているかのようです。一貫した思想や哲学はありません。いみじくも「れいわ」の大石あきこ議員が言ったように、文書交通費について騒ぎだすことによって、他のもっと大切な議論ができなかった、という悔しそうな感想にそれが現れています。「もっと大切な議論」の具体的な内容はわかりませんが、現状を見るとき、それが感染症対策法案であったなら、と思わずにはいられません。
では大衆受けのすることとはなんでしょうか? いまの閉塞感漂う日本社会では、他人(知らない人)が得をすることが許せない、それを徹底的にぶちのめしたい、という悲惨な空気に乗じることなのかもしれない、と思っています。そのために絶えず敵を探し出し、攻撃を加えることで、喝さいを浴びる、というやり方は、たしかにナチスの突撃隊を連想させるものですが、安易な比較はしますまい。ただ突撃隊段階で、それをしっかり批判し潰してしまわないと、あとが怖いのも事実です。
私が悲しくなるのは、他人が得をするのならみんなで得をする方法を考えようという方向にならないことです。社会に余裕がなくなり個人も当然余裕のない社会では、共感も生まれにくく親切心など無用とばかりに切り捨てられることが多くなります。本来そういうものを求めてきたはずの人々がその陥穽に放り込まれます。「維新の会」はそういう人たちの心に囁きかけ、あるいは攻撃をそそのかします。
無思想であることは、ニヒリズムを蔓延させます。誰も信用しない信用できない社会が形成されることは恐ろしいことです。日本社会全体にこれが静かに蔓延していることは、統計的にも示されています。日本人が特に親切であるなんて、いろいろな社会を見てきた限りにおいてそれは違う、とはっきり言えます。どんな社会でも親切な人は親切ですし、心の余裕と密接に関係している事柄です。また心で思ってもそれをためらわせるものが日本社会にはあります。それはまず他人(知らない人)への距離感かもしれません。
大衆受けのすることを探し出して攻撃することにおいて、私は「維新の会」は天才的だと思っています。そういう才覚のある有能かつ無思想な人間(究極のニヒリスト)が裏側にいて、静かに実務を担い操っているのでは、と想像するときもあります。原理原則がないから、どのような対応をするかがわからず、仲間割れすることも辞さずという側面もあります。モラルというかそういう概念も確立していないので、組織内部でに問題を起こす人間も出てきます。犯罪的行為へのハードルが低いのです。
こういう風に見ていくとき、表に出てくる「維新の会」の人物は、まるで芝居の登場人物のように見えてきます。大阪のコロナの惨状に対しても、形だけ「頑張ってます」といいながらマスメディアに連日登場して、自身の名前を売ることにだけ熱心な吉村知事、感染蔓延に対してもおそらくは売名機会の増大としかとらえていないでしょう。「こころ」のなさが、喝さいされているとしか思えません。大阪でコロナが蔓延するのは、彼らの行動基準からすれば、当然なのです。
大阪万博とカジノは彼らの本質を正直に表している事案です。問題を問題として受け取れない彼らはすべてを損得の理屈で封じ込めようとします。それが道義的にどうであるのか、は関係ないのですから、いくらそれを説いてみても蛙の面に水です。誰がなんと言おうが、カジノは彼らと親和性が高いので、無理してでもやり抜くでしょう。これを引っ張ってきたのは橋下徹が知事で松井一郎が大阪市長の時でした。
ですから、大阪はすでに彼らに散々食い荒らされているのに、それに気づかず支持を与えている人たちの存在が恐ろしいのです。国政に進出してきた彼らはそれを全国区で実現させたがっています。支持を与えている人たちの存在が、さらに「維新の会」を勢いづかせ、そして攻撃する敵さがしに狂奔する、という悪循環の果てに分断に疲れ果てた社会が広がっている、などという怖いシナリオを実現させたくない、と思うのです。
彼らをナチスやヒトラーになぞらえて非難する言説がとりだたされていますが、私が彼らの言動から思い起こすのはドストエフスキーの「悪霊」に描かれた世界です。ただし喜劇としての「悪霊」です。一度目は悲劇、二度目は喜劇として現れる、というのは真理です。というわけで次回は「悪霊」を通してみた「維新の会」を考えてみたいと思います。
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