2021年に起こった政治的社会的な出来事については、さまざまなメディアで取り上げられているので、いまここで取り上げるまでもないことなのかもしれません。しかし今回は、ほとんど論じられないまま、私の心でくすぶっていることを述べてみたいと思います。それはオリンピック・パラリンピック(以後オリパラと省略)で顕著に感じられた日本人の行動様式に関する違和感でした。
太平洋戦争での敗戦後、人々のあいだに確固たる位置を占めていたかのように見えた軍国主義的思想や価値観がまたたく間に消えて、「民主主義」という言葉が流行語のように代わって流布していったことは、多くの研究、小説、エッセイの中で語られ、現に生きている人々の言葉で語られています。戦時中、日本国内で過ごしていた人たちは、よほどの冷静さと知見を持っている人を除いて、戦争では勝つしか生き抜く道がない、と信じていたのに、それが戦争が負けて終了し、米軍が入ってきてともかく生きている、と知ったとたんに消えてしまったのですから、信じていた当人でさえ驚いたことと思います。
そして規模こそ異なるものの、その行動との逆の類似性を今回のオリパラで感じていました。あらためて2021年6月時点での時事コムの世論調査を調べてみました。中止を求める層が40.7%と最大で延期を求める層も22.2%と2021年での開催を求めない層が合計で62.9%となります。開催を希望する層は30.4%です。もちろん世論調査は各新聞社も行っていて、調査方法によって数値に多少の違いは出てきますが、2021年での開催を希望しない人々がどれも過半数を超えていました。(*元記事は最後にリンクを張ってあります)
それはまず3月くらいから起こり始めたコロナの感染拡大によって、オリンピックでさらに感染が拡大するのでは、という危機意識。それに追い打ちをかけたのが、オリンピックというイベントが、国際社会のスポーツ祭典などではなく単なる商業イベントであり、そこに群がって儲ける連中があぶりだされたこと、組織自体も公的な名称を名乗ることで、平然と税金がじゃぶじゃぶ注ぎ込まれるからくりが暴かれたこと、などきれいごとの仮面が剝がされ、批判が高まったことが中止を求めるバックにあったと思います。
私自身はあのオリパラで繰り広げられるナショナリズムの爆発のような雰囲気が苦手で、過去のオリンピックでは優れた競技を堪能したい、と特定の競技を選んで見ていました。優れた競技はどこの国の選手であれ素晴らしいものです。日本が現在のようなナショナリズムに覆われる前は、夏冬を問わず素晴らしい競技を披露した選手がどこの国であれヒーローあるいはヒロインとして記憶に鮮明な存在でしたし、日本のメディアももっと謙虚でした。個人的な記憶ですが、最も衝撃的でいまも忘れることができないのは、ローマオリンピックのマラソンで当時無名のアベベが裸足でトップのままローマの街を駆け抜けたことです。
さて話を元に戻しますが、2021年7月にオリパラが開催されると、多くの人々がテレビ画面にくぎ付けになり、またたく間に「開催してよかった」という世論が形成されました。菅前首相が「オリンピックを開催したことは良かった」と自画自賛するのを世論があと押ししました。「それとこれとは別」という人もいますが、私には太平洋戦争の敗戦前後で態度をころっと変えてしまった日本人の姿をまた見てしまった、との思いが強いのです。私自身は昨年のオリパラとはまったく無縁に過ごしました。そうでないと自分の何かが許さないように思えたのです。こういう人間は日本では少数派で割を食います。
ひとそれぞれかもしれませんが、与えられた状況に結局は従順に従う日本人の数の多さを考えると、いまの閉塞状況は打開できないことで、堕ちるところまで堕ちてしまえ、と叫びたくなることも。小さな部分で、他人が得をするのが許せない、といった低い次元で凍り付くような冷たい社会が形成され、その冷たさを土台に維新が勢力を得てのさばる社会って、怖いです。
以上が私なりの2021年のメディアと無関係の追想です。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021061800830&g=pol (時事世論調査記事2021/6/18)
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