2021年追想(1)

雑感
年の暮れ(2021/12/30)

 2021年もあと1時間足らず。この1年は次から次へと起こるさまざまな慌ただしい出来事のうちに、ヌルっと過ぎていくような気持ち悪さがつきまといました。ひとまとまりになって絡んでいるそれを少しずつ紐解きながら、考えてみたいと思いました。

 2020年に始まる新型コロナCOVID19がこの2年間の通奏低音となって生活が流れるなかで、いつしかそういう状態に慣れていく社会の姿がありました。感染者を非難したことなどなかったかのように口を拭って平気で生きていけるという慣れ。流されて生きていくことへの後ろめたさが少しでも感じ取れるならば上等なのかもしれない、と自戒を込めて感じるのです。

 それにしても人間は直接に会うことで言葉以外の信号を発しあるいは信号を受け取って暮らしているのだ、とつくづく思うのでした。感染が広がっているときに、それでも会う以外に術のない人間関係はあります。今までよほどの深い関係を持っていたならば、会わなくてもそれは持続可能なのでしょうが、一般には会わない時間が長くなればなるほど、その関係は記号化していくのかもしれません。

 そう考えるとき、人間は動物なのであり、自然の一部なのだ、ということを痛感します。言葉を持っている動物であるがゆえに、言葉による意思の疎通は直接の接触なくともあいだを媒介するものがあればできるのですが、言葉以外の信号(例えば心や感情)は簡単には伝わらないことがまざまざとわかる機会になったのではないでしょうか。

 とはいえ、私の場合、昨年中ごろから特に今年いっぱい、YouTubeでの情報収集に精を出しました。あらゆる分野での情報にはまり込んでしまった結果、いまや登録チャンネルは36を数え、1日にどれだけの時間を動画に振り向けるか、悩ましいところです。テレビを持っていないのでその時間は必要ないのですが…。YouTubeの動画はそれぞれが主張をもっています(本来情報伝達に中立公正はありえないと思っています)。数多くの動画を取捨選択しながら、自分の判断でこれと思えるもので情報収集ができるためには、自らの基準作りに厳しいこともまた重要かもしれません。

 ただ今年、ショパンコンクールがYouTubeで配信されたのは画期的なことで、ライブの臨場感には及ばないことを承知しつつも、世界最高クラスのコンテスタントの美しい演奏に連日触れることができたのは実に幸せでした。1stラウンドからファイナルまで、そして順位決定後の演奏まで、何時間もの豊かな時間がそこにありました。本来は2020年の開催がコロナで1年延期になったので、次は2025年ということになります。

 かように政治的にも社会的にも鬱陶しいごたごたが続く中で、私にとってショパンコンクールは抜ける青空のように新鮮な記憶となって残りました。

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