2021年10月31日任期満了に伴う衆議院議員選挙が行われ、その結果がどのようなものであったか、はすでに明らかになっています。期待したのとはかなりかけ離れた結果でした。その当座はしばらく脱力感が半端ない状態だったのですが、しばらく時間をおいて考えてみると、良くも悪くもいまの日本の状況をしっかり反映しているのではないか、と感じ始めました。と同時に多数を取ることが目的化してしまっている政治の世界は、最悪でないだけまし、という意味でとらえなければならないのかもしれないとも思いました。
多数を取ることにどういう意味があるのか、を考えるとき、それが正しさを担保しないことは、自明でしょう。多数があるときそこには必ず少数があるわけです。その少数をどのように考えるか、によってその国民の成熟度が推し量れるような気がします。少数意見を大切にすることが民主主義である、とは私なりの民主主義のひとつの定義です。多数意見が正しさを担保しないわけですから、少数意見によって議論がなされることは必須です。
ただ今の日本の社会の風潮を見るとき、それと相反する「勝てば官軍」、あるいは「勝ち馬に乗る」ことを優先させる土壌の強固なのに驚かされます。思想というものが各個人の意識下に自然に存在するような変革を体験してこなかった日本社会は、江戸時代的な発想に近代的な構造を接木したまま、世界の動きに翻弄され、世界の勝ち馬に乗ろうとしました。一般の国民の意識と国家の意識の食い違いを精神主義で糊塗し、国家が作り出した雰囲気に熱狂的に応じ、時にはそれを国民が煽る形で自らが勝ち馬になろうとしました。その結果が焼け野原でした。
その反省がなされたかどうか、たしかに戦後しばらくは新しい社会を築こうと人々が努力したのを否定するものではありませんが、米ソ冷戦にまたもや巻き込まれたまま、以前の社会が亡霊のように立ち上がっていくのを止めることができず、朝鮮戦争という戦争経済で国家経済が復興してしまったことを、とても象徴的だ、と思うのです。
今回の選挙でも感じましたが、国民が自らの代理として国家との一体感を持とうとする動きの強さに驚くのですが、この意識が「勝てば官軍」感覚に裏打ちされているのかもしれない、と思います。勝てそうなところにくっつくことで、自分を国家の一員として正当化できるという感覚は、個人の思想や自我という近代特有のややこしい部分を飛び越えて、簡単に自分を酔わせることのできる手っ取り早い方法だったのかもしれません。
与党が長年ほぼ同じだったということは、国家の骨組みが与党に都合よく作られてしまっていることを示唆するように思います。与党が最初から下駄をはかせてもらっているわけなので、よほどのことがない限り与党が勝つ仕組みです。どんな権力でも「権力は腐敗する」というのは真理だと思います。その結果がモラルハザードを起こしても恬として恥じない権力者であり、利権で成り立つ政治となってしまいました。
ですからよほどの覚悟がない限り、野党もまた与党のようになってしまうのが出てくるのは必然なのかもしれません。維新が出てきたのは、与党の補完勢力として、与党のできないような派手な立ち回りと敵を作って叩いてみせる部分で喝さいを得たことであり、与党以上に内容において与党的であることが、景気低迷で鬱陶しい気持ちでいる人々に、表面的にはスッとする効果を与えました。私の考えでは、維新の裏側には無思想であるがとても実務的かつ有能な誰かがいるように感じます。私にはその裏側の誰かが不気味です。
立憲民主党は党としての惨敗から代表が替わりましたが、予想通り与党寄り政策、かつての民社党的な人々が力を持ちました。おそらく立憲民主党は急速に衰えていくのではないか、と思います。国会の質疑では、結構有能な人たちがいて期待もしたのですが、いまの日本の社会構造では難しいことを身に沁みて感じました。
共産党は、共産主義という言葉がソ連や中国によって担われたために、それが本来持っていた理想主義的な思想としての意味が、誤解されて損をしているのがわかります。また野党連合で割を食ったのは共産党のほうだったと思います。立憲民主党の罪は深い、と私は思っています。「理想」という言葉がふさわしい珍しい政党として、その存在は貴重だと思います。
今回の選挙で希望を感じさせたのは「れいわ」でした。今後、最初に述べた民主主義における少数意見を代表してくれる人たちになってくれるのではないか、と。少数意見であることを誇りに思って登場しているのがその特徴です。正面から多数に対峙できる力を感じました。近代における市民の運動はこういうものでなければならなかったのではないか、と感慨深い思いです。
選挙が終わったばかりのときは、こうなったら日本は堕ちるところまでとことん堕ちてしまえ、とやけになっていましたが、こうやって考えていくうちに、あらたな希望もあることに気がつきました。勝ち馬に乗らない人たち、多数に飲み込まれない人たち、信念のある人たち、がいる限り、多少はなんとかなるかもしれない、と気を取り直しています。
コメント