ネット社会ではだれもが気軽に発信できます。しかし、発信に際して匿名にするか、本名にするかは、日本のように相手をいつも意識する社会では大変悩ましいもんだいです。私は、ある程度私を知っている人には推測できる匿名にしています。理由は、私の名前が大変平凡で、全国に同姓同名がたくさんいることでした。具体的には、ある日の新聞社系メディアのコメント欄に私の名前を発見し、何とも言えない嫌な気分になったという体験があります。もちろん私ではありませんでした。
その日以来、コメント欄の名前にも注目していますと、本名や明らかな匿名以外に本名めいた匿名も随分ありそうです。誰か他人の名前を騙って発信することは可能です。匿名を認めている場合は、当然そういうことが起こります。世に知られた人ならば、本名でも問題はないのでしょう。他方、よく知られている人と同姓同名の人の場合は、匿名を選ぶことになるのでしょう。
悪意を持って匿名で他人を攻撃するのは論外ですが、正直なところ、私と全く異なった意見が、私と同じ名前のもとに述べられているのは、想像以上に傷つくことでした。気にしなければ良いのはわかっていても、気持ちがざわざわするのをおさえることができませんでした。もちろん匿名であっても、問題が起こったときは、司法の判断で本人を探し当てることが可能ですが、それ以前に偶然の同姓同名・他人から名前を使われる・自分が本名で発信して他の同姓同名の人を傷つけるなどを考えるとき、匿名とわかる匿名を使うほうがベターなのかもしれません。問題から逃げているのでしょうけれど…。
これがアメリカなど、本名を明らかにするのが前提の社会ならば、事情はもっと異なるでしょう。本名を明らかにしても誰も気にしない社会ならば、このような場合「同じ名前だけれど、意見は違うよ」とでも書きこんだらそれで済むのかもしれません。「誰も気にしない社会」というのは、日本にいると想像しにくいのですが、最終的には、他人の目をいつも気にする作業を強いられている社会の対極に属する社会なのかもしれません。

私自身の具体的な体験としては、2016年インスブルックで日傘を使ったときのことが印象深く思い出されます。ヨーロッパの夏はカラッとしていますが、その分日差しが強烈なのはご存知の方が多いと思います。誰も日傘をさしていないので、しばらくは躊躇していたのですが、とうとう日差しの強さにたまりかねて日傘をさしたのですが、見る人は誰もいません。ごく当たり前の人々の往来に、気が抜けてしまいました。変なところで自分のことを日本人だな、と苦笑。「誰も気にしない社会」というのは、こういう社会なのですね。
日常生活では私自身、あまりあれこれ気にしないで過ごしているつもりでしたが、いつの間にか影響を受けているのがばれた、とでもいうような落ち着きのなさを感じました。と同時に違和感を漂わせる人間を拒否したりひどく気にする社会のあり方は、その本質においてとても冷たいのではないか、と思わずにはいられませんでした。
私は、匿名が決して良いとは思っていないものの、同姓同名のコメントに出会って腰砕けになってしまっておろおろしている、というのが実際のところなのでしょう。
コメント