8月31日に米軍がアフガニスタンから撤退しました。それを巡っての論評が毎日喧しい状態です。他方、国内情勢の報道はいつの間にかコロナを置き去りにして総裁選に焦点をうつしています。「内弁慶」とは、外ではからっきし意気地がないのに内側ではわがままで言いたい放題やりたい放題の人間のことを言いますが、いまの日本のマスメディアはその逆を行く「外弁慶」のようです。
YouTubeで高市早苗氏の広告を見ました。いわゆる安倍バックで電通肝入りと言われるものです。自民党という政党内部の選挙は、あくまでも私的なもののはずです。すべてとは言いませんが、大手メディアが雪崩を打って報道においても自民党の広告塔となっている状態は、異常ですしちょっと怖いです。日本の政権は組織人間である記者の弱みをしっかり握っています。その記者がフリーの記者を排除している構図、政権がそれを支援している構図が見えます。
それと対比するとき、同じメディアの人々が、外国、特に中国や韓国、そして最近ではアフガンの情勢について語るときの、よく言えばのびのび感、悪く言えば言いたい放題感に、嫌悪を感じないではいられません。すべてとは言いません。とても深い知識と取材に裏付けられたであろう優れた見解もあります。しかし、多くの報道では、忖度しなくていい分だけ自分の思いのたけを語っていますが、その根拠が与えられた外信中心で、自分の視点でかみ砕くことなく偏見に満ちているのが、とてもつらくなります。
まるで自分自身が政府の高官になったように、あれこれ語るのは見苦しいです。戦争を語るときに、ほとんどは戦場の駒にしかなりえないのに、司令官気分で得意げに戦略の話をするのに似ていて滑稽です。現地で暮らさないとわからないことがいっぱいあります。現地で普通に暮らしを営んでいる人たちに取材してください、と言いたくなります。
「米兵が2400人、そして多数のアフガン人が亡くなった」という撤兵前の報道(ロイター)の「多数」に胸が痛みました。聞いたところによれば(実際には統計がとられていないのですが)、5万人をはるかに超える人々が「戦闘や誤爆」でなくなっています。その亡くなった人々の周囲にはそれを悼む何倍もの人がいます。その人々が「反米」であったとしても当たり前ではないでしょうか。ある日外国軍が突然侵入してきて、日常生活が破壊されたらどうなるのか。追い払うしかないでしょう。

アフガニスタンの社会については、中村哲先生の著書で学びました。農民であり兵士である人たちが、生活のために銃を持たざるを得ない社会を作ったのは誰のせいなのか。誰もそんな社会を望んでいない中で、自然の干ばつによってもさらに翻弄される人々の苦難の歴史、その中でもたくましく家族とともに生き抜く人々の姿が、いつしか、私に希望を与えていました。
また私自身10年間を中国で過ごすことによって、普通に生活をしている人々のたくましさや優しさに触れました。2011年に戻ってから10年が経とうとしていますが、基本的な人々の生活へのスタンスはそんなに変化することはないでしょう。「政策あれば対策あり」というユーモアを交えながらの姿勢も相変わらずのことと思います。そういうしぶとい人々を束ねなければならない中国政府は苦労するだろうし、肯定否定関係なく馬鹿ではできない、とも思っています。
簡単に「自由と民主主義」と言いますが、それを最高の価値観とする米国社会が資本主義の弱肉強食社会であることも、心のどこかにとどめ置かなければなりません。日本でそれを党名にする自民党にその理想が体現されているとはとても言えないまま、結局日本は1945年アメリカが占領してそのもとで「自由と民主主義」社会を作ったことになっています。が、いまの体たらくをみるとき、何でもいえる社会のはずなのに何の力にもならない、というジレンマを感じている人々は多いと思います。
そして大組織としてのマスメディアの人々は「自由と民主主義」を声高に唱えながら、実際のところ、個々の問題について、組織の論理の下で自由を放棄し、政権にすり寄って、検証することなく、出世を目指してのみ頑張っている結果になっていること、国際報道に際しては、アメリカの代理人のような発言を自信をもってしていること、さらに悪いことにはそういった状況に無自覚であることが、私には我慢できないことになりつつあります。
イデオロギーとは無関係に、地道に生活に奮闘し、自然に反することに対して声を上げる勇気を持つ人々、こういう人たちが私にとっての希望なのかもしれない、と思う日々です。
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