中国(大連・上海)生活雑記2 出発と到着

回想
霧の中の大連市街

 2001年5月23日、それまでの日本での生活を畳んで中国大連での生活に踏み切りました。3月から仕事も含めてあらゆるものの整理に取り掛かり、ようやく出発点に立った思いでした。パートナーは2月、すでに大連に発っていたので洪水のような、あふれかえるものの中で格闘して、なんど途方に暮れて呆然としたことでしょう。しかしそれも終わりました。

 新しい生活への好奇心が膨らんで期待に変わっていったのもこの忙しさの中ででした。もしかすると半永久的に過ごすかもしれない場所への好奇心が、出発時の私を支配していたように思います。幼時を過ごした国であるという知ってる感よりも、幼時に植え付けられた性格、あるいは三つ子の魂とでも表現されるようなものが、大っぴらに再登場したようなさっぱり感がありました。

 関西国際空港で、大きな手荷物を3つも抱えた私は、さっそくチェックインで呼び止められました。せめて大きなのは預け荷物に、といわれて押し問答になりました。その当時まだ高価だった液晶ディスプレイを緩衝材に包んで持っていたので、私は「預けて壊れたら補償できるのか」などととにかく譲ることなく反論していました。こういう仕事はJALが請け負っていましたから、規定に従って注意をしたのでしょう。それはそれでよくわかりますが「内容物については私どもには関係ありません」などと無表情な事務顔でいわれると妙に腹が立ちました。

 私がめげることなく主張を続けられたのは、搭乗する飛行機が中国国際航空の運航だったからです。中国の人が旅行するときの荷物の多さは、当時、今もそうかもしれませんが、定評がありました。早めのチェックインでしたから、巨大手荷物を抱えた人たちは未登場でしたが、それに比べれば私の荷物は標準的だ、という自信がありました。最終的に搭乗時に乗務員が預けるよう要請した時にはそれに従う、ということで結着しました。もちろん咎める乗務員など皆無でした。

 2001年の9・11事件以前でしたから、これですんだのでしょう。9・11以後ならば絶対無理だったでしょう。デスクトップのパソコンはハードだけを外して手荷物に入れていました。いま思い起こしてもデジタル環境がその後の10年間にどれほど激変したか、をしみじみ感じてしまいます。激変の10年間を中国で過ごせたのは、とてもラッキーでした。海賊版で次々に出るOSを片っ端から試しました。試さなかったのはVistaだけ、という…。スマホが登場するのはまだまだ先でしたし…。

 それはともかく大連の周水子空港にはパートナーが迎えにきて、大連市内にある住まいに向かいました。当時市内中心部までは信号がほとんどなかったので車はずっと走りづめです。到着したのは、大連の中心である中山広場からも友好広場からも近いタワービル「遠大大厦」でした。2011年に離れるころは、信号機もたくさん設置され、道路の渋滞も激しく、50階足らずの高層ビルが至るところにょきにょきと建っていましたが、そのころ、高層ビルはまだ数えるほどしかなくて、ビルの名前を誰でも知っている、という状態でした。

 「遠大」とは企業集団の名前で、さまざまな企業を抱えていました。このビルの最上階27・28階がいわゆるメゾネットタイプの住まいとなりました。当時の大連の絵葉書にはこのビルがしっかり写っているほどにビルはまばらでした。フロアは270平米近く。27階すなわち下の階はリビング・ダイニング・キッチン・使用人のための小部屋・シャワールーム・トイレを配置。28階は、主寝室・バスルーム・トイレ・クローゼット・書斎・ゲスト用寝室で構成されていました。

 入口を入ると手前に上の階への優雅にカーブを描いた階段があり、その傍らに猫足のロココ調のテーブルと椅子がしつらえてあります。さらに奥にリビングダイニングが広がります。埋もれてしまいそうな応接セットのソファは実際にベッド代わりにもなる大きさで、アメリカ製。壁には絵画が飾ってあります。主寝室のベッドも名前は忘れてしまいましたが有名どころのブランド、各フロアに敷かれている厚い絨毯は、天津段通でものによってはウールでなくシルクです。すべてこういった調子でただ、圧倒されているだけでした。

 豪華な住まいである理由は回をあらためて説明します。しょっぱなにこのような場所に住んだことは、あとあと少々のすごさやこけおどしには驚かない心を準備する結果になったと思います。中国で過ごすにはとてもプラスになりました。大連では、時々霧が発生します。その霧が大きな窓一面を覆って部屋全体がミルク色に覆われ、空中に浮遊しているような感覚になるのが実に不思議でした。

 こんな状態で私の大連生活はスタートしました。

 

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